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CLARK MOSELY

法竹の魅力

自分で採ってきた竹を使い自分の手で作る。出来た法竹を吹くと自分の息が音になって現れる。曲を奏でるというより音そのものを味わう。

 

竹そのものの音 

短い竹 長い竹 細い竹 太い竹 軽い竹 重い竹。どの法竹を吹いても同じ音色のものはない。一人ひとりが皆違うように竹も一本一本皆違う。それが自然。

 

日本古来の音

音色と間を活かした音楽。音色と間を自由に遊ばせる音楽。無音と有音に同じ価値を持たせ無音をも表現する。

 

不完全である法竹

法竹の一音一音に気を集中させ自分が竹に息を合わせる。竹に息が合えば竹の音と同化し自分自身が竹そのものになる。

すると無我の境地の扉が少しだけ開き深いところから光がさしてくる。 

 

一音成仏の世界

一音一音、息を吐ききれるように呼吸を鍛える。呼吸が鍛えられれば一音で自由自在な表現ができる。一音一音に意識を保つことは自分自信に向き合うことにつながる。

竹を削っただけの歌口

根の部分を活かした管尻

2尺3寸管(A管)から3尺3寸管(D管)

法竹との出会いは海童道との出会いだった 

 破天荒で、型破りの生き方を貫いた人。変わり者だとか大ホラ吹きとか良くない評価もあるけど、思いのままを素直にさらけ出せる図太さは海童道開祖のなせる技なのではないか。どんな奇行に走ろうとも、とにかくあの法竹の音色を聴かされれば、その変人ぶりも口から出まかせも、海童道という哲学の中にすっぽり納まってしまう。形式や伝統なんてものは海童道にとっては取るに足らぬ些細なことなのだろう。「常識なんかぶっ壊せ、人の目なんて気にするな、己の道を貫け!」というメッセージを強烈に残して逝ってしまったが、今もなお、尺八界のカリスマであることには違いない。 

 海童道との出会いは運命的だった。よほどの物好きでなければ住まないような、吉祥寺のおんぼろ一軒家。二階に我が家族が住み一階に大家さんが居るという一見、窮屈な条件のように思えた借家だったが、これが縁の不思議というもの。その大家さんがそうとうの変わり者で、東大の仏文卒で年は60歳くらい、自宅で私塾を開いてはいるが塾生ゼロ。(いや一度、僕が新聞折り込みのチラシを作ってあげたとき、小学生の兄弟が入って来たが、ひと月ほどでこなくなってしまった。)つまり無職。本人いわく若くして、精神分裂と躁鬱病を患い職場(角川で編集者だった)を追われ、妻にも娘にも逃げられて以来、ひとり者。日々、音楽と文学だけを友に生きて来たということらしい。自宅の部屋は、煙草のヤニに染まった本とLPレコードが山積されていて、ドアを開けた瞬間から世界はヤニ色フィルターのかかったくすんだ色に変貌する。そこで聴かされたのが海童道の『即音乱調』だった。

即音乱調 
風林、紫所伝、本調、北国れんぼ、深夜、
真虚霊、総心月、真蹟

 

海童道祖
Watazumi Doso
(本名:田中賢)明治44年(1911)11月、福岡生まれ。

平成4年(1992)12月14日事故により死去。81歳
 禅の普化宗から、それをさらに進化させたのが「海童道」。「無」でもなく「有」でもなく、そのいずれにもとらわれないで、同時にその両者でありながらも、それらを超えた境地を求める道(哲理)。それを楽器としての尺八ではなく、自然の竹に最低限の加工しか加えない法竹(ほっちく)を吹定(すいじょう)することで体現した。また、ロシアの映像詩人タルコフスキーの遺作となった映画「サクリファイス」の音楽に使われたことでも知られる。

 一曲目の風林という曲が始まった瞬間、脳裏に景色が広がった。人類の存在する以前の鬱蒼とした密林のイメージ。原初の風景とでもいうべきか、人類を超えたところで通奏低音のように鳴っている沈黙的な響き。とにかく、なんだろう?この音楽は!!今までに触れたことのない音には間違いなく、こんな世界があったのかと驚いた。すぐ、大家さんにお願いして『即音乱調』ともう一枚あった『法竹』というレコードをテープに録音してもらった。それから毎日のように海童道を聴いたが、音楽的な構造や音階が理解できず、どれも同じ曲に聴こえた。実際に自分で古典本曲というものを習うまでは、知らないことだらけだったのだ。海童道の境地に近づくための自然法(実践哲理)というものは、凡人には理解しにくいが、海童道が残したいろいろな資料(LPのライナーノート、武満との対談集など)から僕なりに考えてみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『海童道』
鶴の巣籠、山越、三谷、鉢返、鹿の遠音、降り葉、春佐、息観

『The Misterious

Sounds of The Japanese

Bamboo Flute』
臨門、浮雲、曙獅子、

武蔵調、大菩薩、心月、

根笹調、音取、虚鈴

『海童道〈法竹〉』
薩慈、わたづみの調、

菅垣、無調、巣鶴、山谷、産安、下り葉(関西)、
下り葉(奥州)、虚空じ、

手向、一二三の調、

本調、霊法、心月

『霊慕・前衛』
霊慕、返調、降り葉、行霧海じ、
乗管、未明、今

『臨暮四題』
虚空臨暮、大和臨暮、

武蔵調、奥州臨暮、

行虚霊、降り葉

■海童道の「感じ」について
 『Letters to me』アレックス・ロビラ(著)というベストセラー本の中に、人間の内臓は第二の脳、第三の脳の役割を果たしているということが書かれていた。心臓は直観を司り、腸は経験したこと全てを記憶し、その時々の感覚から感情が生まれてくるという。僕の中では、経験から心当たりがあったので、ネットで調べてみると『内臓が生みだす心』西原克成(著)という本が見つかった。心や精神というものは脳ではなく心肺を含む内臓に記憶され、その記憶が感性や感情の核になっている。その事実を、いろいろな臨床実験やデータから追求している内容。法竹を使い呼吸を練磨するということは、つまり心肺を含む内臓を鍛えることにつながり、直観や感性を磨くことにもつながる。海童道の言うところの≪人間は「感じ」が総てとなる。たとえば、笑いたい泣きたい、歩きたい休みたい、話したい歌いたい、などという如くに「感じ」に始まって、一切の日常生活が営まれる。≫≪人間が充実した生き方を発揮したいという最大要点は「感じ」の在り方を精錬するにあり、そこに優れた境地や独自のはたらきが現される。≫の証明が西洋医学的見地からもされてきたようだ。海童道は実践哲理を通して、人体の本質をついていたのだ。

■海童道の「呼吸と意識」 について
 ビパッサナー瞑想というものを体験したことがある。京都の山奥で10日間、言葉を断ち、自分と向き合って内観するというもの。この体験を通して海童道の言うところの実践哲理が少し理解できたように思えた。理解というより体が知覚したとか、腑に落ちたと言うべきだろうか。海童道が言っている有形と無形は、つまり意識と無意識のことで、大切なのは無意識の方。人間が通常意識できない深層心理にこそ生命の源泉がある。しかしその生命力を鍛え直すことは難しい。“三つ子の魂、百まで”と昔から言われるように、心の深い部分は胎児のころから形成され始めて、自我が目覚め自己という意識が生まれるころにはずっと深い心の奥底に埋もれてしまう。意識では届かない深層心理を動かすことは難しくなってしまっている。しかし、その無意識に刻まれた生命力を鍛えなおす方法がある。その鍵を握っているのが呼吸だ。人間の内臓は自律神経によってコントロールされ、意識することなく動き続け止まることはない。睡眠中の無意識状態でもとうぜん動き続けてくれている。逆に言うと、ほとんどの内臓は意識では動かせない(ヨガの達人なら、心拍数を変えたり、胃や腸まで動かすことができるらしい)が、唯一意識で動かせる臓器ある。それが呼吸の源泉である肺だ。「はいっ大きく息を吸って、はいっ吐いてー」と誰しも医者から一度は言われたことがあると思うが、肺は、もちろん寝ている間(無意識の状態)も止まらずに動いてくれているし、また、意識して吸ったり吐いたりもでき、両意識に作用している。呼吸は意識と無意識をつなく梯と言える。 ビパッサナー瞑想でも最初の3日間はアナパマと言って自分の息を意識し続ける瞑想を行う。とにかく無意識への入口を開く鍵は、呼吸にあったという貴重な体験だった。

■海童道は吹くたびに変わる 
 横山勝也(著)『 竹に生きる』の中に印象深いところがあった。横山氏は10年間、海童道祖の弟子だったことで知られている。あるとき産安という曲を海童道のレコードを聴きこみ練習を重ね、自信を持って道祖の前で披露したが、道祖は「そんな吹き方じゃだめだ。その曲は、今は春佐という曲になった」(確か?)と言って、違った曲調で吹いたそうだ。つまり曲という形にこだわって吹くことは無意味である。一音一音のつながりとして曲の意味あるが、大切なのは、その時々の気分や体調に応じて自由に吹くこと。自然界(この世)にくり返しはない!ただあるのは、過ぎ去って行く“今”だけ、海童道の発信したメッセージの底には常に“今を生きろ精神”が流れている。そして、譜について道祖はこう語っている。≪いちおう譜はあるといっておこう。しかしその譜の通り吹いてもある時は三分の時間ですみ、またあるときは十分以上にもなる。というのも業(わざ)と力が反比例しているからである。≫≪一つの曲を何度吹いても別の曲に聞こえたりするわけだ。譜にあるものと生命の流れは全然別だということである。≫

■海童道では“すき焼き”も吹ける!?
 すき焼きから宇宙までを語ってしまう海童道祖。若き武満に与えた影響の大きさがうかがえる対談。ジョンケージはさすが道祖の哲学を理解していたように思える。以下対談集の一部をそのまま引用しておきます。

海童 これは何わざにしてもみんなそうですが、結局は、ほんとうの音と言いますか、すべての音は、なんにもない音が基本です。たとえば法竹をききながらイビキをかく人がいます。それで法竹の音をそれに合わせつつすーっと消していくと、イビキだけが残る。イビキだけが音楽として、現在ただいまに露現して、私と調和した音を出しているのです。また法竹を吹上している側で、すき焼きの音を立てている。そのときは、すき焼きそのものと自分が同化するのです。自分がすき焼きの音になるのですが、側の皆様はすき焼きと法竹を別ものと思っているけれども、実はすき焼きを吹いているわけです。法竹とすき焼きが音によって一如ですが、法竹のほうを聞かせるからなんですが、法竹を止めさえすれば、すき焼きの音に化した自分が天地いっぱいに、この部屋ならこの部屋中に満ちているわけです。それを皆様はすき焼きの音とばかりに思って法竹の音も食っています。そうしたことはみな機縁によってできるわけでございます。自然の風景を見ながら、法竹の音を段々細めて、自分をのせますと、自分は針みたいな精神になります。つまり張り切った微妙音になり切った神秘の姿です。が、そういう工合になってくると、宇宙の精神に通じて、隣の部屋で針が落ちる音も聞こえてくるのです。
 このように微妙音につれて自己は一切になり切って世界観が広くなったとには、有音は逆に邪魔になる場合があります。だから、統一の精神というものを音であらわす場合には、音は非常に細くなります。呼吸に関係するからでございます。これまで音、音といってきましたが、音じゃなくて、ほんとうは呼吸なのです。呼吸が、澄んできて、精神が、統一の最高調になってくるほどに音も同時に、澄みとおってくるのです。それを大気と一如のようにさせていけば、このまま、自分の吹いた音というのは、宇宙に遍満するわけです。心の面から、このことを宇宙心の躍動というのです。
(…)すき焼きの音を記譜するというのは、まだ七音階にとらわれている考え方で、それでは微妙さがありません。
 宇宙の音階ーーそれは無です。無というのは無数のことで、宇宙間には人間の考えた音階だけでなく、けだもの、鳥類。山川草木たちの音階があると思います。すき焼きの音も記譜しようと思えば、どの音階からでもできます。人間ができないからといって、記譜できないことはないのですが、そんな記譜よりも宇宙心が音のはたらきと化すことを知るのが大事です。
(「海童道の世界」海童道祖・ジョンケージ・武満徹
 武満徹対集『ひとつの音に世界を聴く』晶文社より/P72-74)

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